東京高等裁判所 昭和54年(う)1106号 判決
被告人 永島廣道
〔抄 録〕
所論は、要するに、被告人は捜査機関の仕組んだいわゆる「おとり捜査」によって犯意を誘発された結果、原判示第二の犯行に及んだものであるところ、「おとり捜査」は捜査機関が詐術を用いて人をわなにかけるものであって、その者の人格を無視し、個人の尊厳を著しく毀損する点において憲法一三条に、また適正手続条項にもとる点において同法三一条にそれぞれ違反する違法違憲な捜査方法というべく、かかる違法違憲な捜査に基づいてなされた本件の覚せい剤不法所持にかかる公訴の提起に対しては、刑訴法三三八条四号を準用して公訴棄却の判決をすべきであったのに、これを看過して不法に公訴を受理したのは同法三七八条二号前段所定の事由に該当し、仮に本件公訴の提起が無効でないとしても、捜査官の詐術という違法な手段によって収集された本件証拠物である覚せい剤及びこれを証拠とする違法な逮捕勾留のもとで収集された各関係証拠を犯罪事実認定の用に供した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があり、原判決はいずれの点からしても破棄を免れないというものである。
そこで、訴訟記録及び各証拠に当審における事実取調の結果を加えて、本件捜査の経緯につき検討すると、原判示第二の当日の午前零時四〇分ころ同判示の覚せい剤不法所持の現行犯人として被告人を逮捕した慶野行則及び横山安生の両巡査は、それよりさき、一見遊び人風の服装で密行勤務に就き、覚せい剤取引の多発地区と目されていた東京都豊島区池袋二丁目九〇七番地先の道路上に腰をおろして、覚せい剤密売人の現われるのを待つうち、同日午前零時ころ、その付近を通りかかった被告人をその風貌、挙措等からみて覚せい剤の密売人であると直感し、慶野巡査が被告人に声をかけて会話を交わしたのち、覚せい剤を分けてくれるよう頼んだこと、右両巡査を覚せい剤の常用者と思った被告人は、右申出を承諾し、右両名に対し、同所から約一五〇メートル距たった「ロサ会館」入口で待っているように言い残して、自らはその途中の喫茶店「ニューサカエ」に立ち寄り、同店洗面所の手洗器の下にはりつけるようにして隠しておいた原判示第二の覚せい剤を二つのビニール袋に分けたうえ、一袋を着衣のポケット内に入れ、他の一袋を手に持って、「ロサ会館」入口に至り、手に持った覚せい剤入りの右の一袋を慶野巡査に手渡したが、右は被告人が前日右「ニューサカエ」で氏名不詳者から買い受け、その一部を原判示第一のとおり自己の身体に注射して使用した残りの覚せい剤であったこと及び右覚せい剤の授受が終った直後、被告人は慶野巡査から警察手帳を示されて警察官であることを明かされ、そのまま二〇〇メートル足らず離れた池袋駅西口派出所に任意同行されたうえ、同所において所持品の呈示を求められてポケット内から残りの右覚せい剤一袋を差し出し、これら覚せい剤の予試験を実施するため、さらに警視庁池袋警察署に同行されて同署において予試験の結果、右のものが覚せい剤であることが確認されたので、覚せい剤の不法所持の現行犯人として逮捕されるに至ったものであることがそれぞれ認められる。以上の事実関係によると、原判示第二の事実に対応する公訴事実は同判示日時警視庁池袋警察署池袋駅西口派出所における覚せい剤の不法所持ではあるが、右の覚せい剤は、前示のとおり、すでにその前日来前記喫茶店「ニューサカエ」の被告人のみの知る特定の場所において被告人の支配内に置かれていたのであって、本件覚せい剤の不法所持はかようにしてすでに実現された犯罪が継続する間のひとつの発現とみるべきものであり、そして、右「ニューサカエ」における覚せい剤の所持は、前認定のとおり、本件の捜査とは全く無関係に、本件の前日の午後三時ころ被告人が自らの意思で他から覚せい剤を入手した結果招来された犯行であって、前記慶野及び横山両巡査による本件捜査の過程にその身分を被告人に知られないように振るまう言動があったとしても、このことによって被告人の新たな犯行が誘発されたものではないから、捜査機関の作意によって犯意のない者に犯意を生じさせた場合に論じられるいわゆるおとり捜査にあたり、違憲であるとする旨の主張は、本件の場合前提を欠いて失当の論議というほかない。また、本件覚せい剤事犯のような犯罪の捜査にあたっては、その犯罪の特殊性に鑑みて捜査官の身分秘匿による捜査活動もある限度においては認めざるをえないものと考えられ、前示慶野及び横山両巡査の言動の程度では、これによって虚偽の資料が得られるおそれのないことは勿論、なんら犯人その他の者の人権を侵害する危険も存在しないと解されるので、本件捜査をもって証拠の違法収集行為にあたるとし、これによって得られた証拠はすべて証拠能力がないものとする論旨も理由のないものに帰する。
(西川 杉浦 阿蘇)